夏で待ってる

短歌感想etc…

愛を与える(連作についても)

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ラス・メニーナス〈女官たち〉(1656)ベラスケス

謎かけのような構成の作品で、現実と想像との間に疑問を提起し、観賞者と絵の登場人物の間にぼんやりした関係を創造する。

Wikipediaより)


僕がこの絵画に出会ったのは、たしか冬だったと思う。書斎に忍び込んでかじかむ手を温めながら画集をめくっていたからね。

王女と彼女を囲む女官は皆別々の方向を向いていて、なんか怖い絵だなとは思った。それだけだった。

そのあと画集を閉じてライ麦を読んだんだっけ。とにかくこの絵はあんまり印象に残らなかったな。


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でも、数年経ってこの冬にもう一回調べ直したら一番好きな絵画になったんだ。今回この絵画を入れた理由として下の2つがあった。


1つ目は、この絵の構図が(国王夫妻の目線から描かれたものだからか)夜中に暗くして友達と映画を見ている途中でみんなでお酒を探す様子に似てたから。その光景をこの絵を用いることによって表現できるんじゃないかと思ったんだ。

2つ目は主体がその絵画の存在を知っていること、つまりはある程度芸術に興味があることを暗に示すためだった。正直、これは成功したかどうかはわからない。


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最近は、自分の作風が以前から自分の中にあった写実性から離れている感覚がある。その写実性っていうのは、短歌の中にあるオブジェクトや視線の動きを手がかりにして、読者が作者とどれだけ似た情景を思い浮かべられるかだと思っている。

それがどうもね、最初から可能なことだったのかどうかはわからないけれど、別に写実的である必要もないんじゃないかって思い始めたんだ。さらに言うと、そのイメージ画像でさえうまく描くことのできないようになってきたことも事実なんだけどね。


じゃあ、今は何に重きを置いてるかっていうとね、まあ、一言で言えば空気感のようなものなんだ。だけど、その空気感はひどく個人的でやるせないものばかりだ。


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実はこの連作にはこの1年の自分の状態を表現したかった、という裏テーマがあった。

わかりやすいもので言えば血縁主義への反発、教科書上のものと実際のものとの乖離、わかりにくいもので言えば愛の授受、特に与えるいう行為について、なんかがあったんだ。


愛の授受に関しては、もはや自己満足に過ぎない。そんないい加減な出来だ。伝わらなくてもいいかな、くらいの気持ちで書いてしまった。だからこそ、このページでその愛の授受について少し書こうと思う。


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愛を与えるという行為はひどく一方向的だ。例えば、目の前にいる相手に何か尽くすのであればわかりやすい。

しかし、相手の顔が見えないシチュエーションもある。

相手がどのように受け取ろうと、それは受け手の問題であって与える側が気にかけるには限度がある。


実家に15歳になる愛犬がいるのだけれど、この冬に1年ぶりに帰省したら、すっかり僕のことを忘れていた。認知が進んでるからね。

それで思ったんだ。犬はこの1年で僕のことを忘れてしまったけれど、僕は彼女のことを本当に忘れずに過ごせていたか、ってね。

つまりはね、授業を受けているときにも、映画を見ているときにも、試験勉強をしているときにも、友達とくだらない遊びをしているときにも、彼女の温もりを思い出せていたのかっていうこと。

僕は、決してそうできていたとは言えない。


12月の夜中、うまくいかないことに悩んで暗闇の中でスマホをいじっていたときに思ったんだ。今、彼女が隣にいて抱きつくことができて、またあの甘ったるい匂いを嗅げたらどんなにいいかって。

それはこちらからの愛の表れであるとも捉えられるけど、自分勝手に彼女を欲しいって思ってしまっているわけだから、やっぱり僕は幼い子供のように愛を受け取るだけの状態に慣れてしまったんだな。


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そしてね、この愛には八方美人みたいにね誰にでも与えられれば良いんだけど、与える側にも許容量がある、と思うんだ。

そして、その大きさについて考えてしまう。

そうなれば、必然的に大きさを比べることになる。例えば、僕が誰かに好意を持ったとして、その大きさは愛犬へのそれと比べてどの程度なのかってね感じでね。


その与えることの難しさは、この大きさに関係していると思う。

難しいのは、手段としてではなく自分の中で大小の判別をつけられないからだと思う。


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これらの事柄は、僕の短歌だけでなく小説などの創作のテーマとして、とても大きな割合を占めている。

(それが形になったからと言って、特に好転することなどないのだけれど。でも、つまるところ作者自身にとっての直接の創作物の価値は、その程度なんだろうと思う)


でも、僕らはこの難しさを抱えたまま生きていかなければならない。

選択する必要がある。

時にはその容量を増やす必要に迫られるだろう。それは簡単なことではない。責任が伴うから。

育ててくれている親を愛して、近くにいる友を愛して。


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今回は、せめてこの愛というものを即物的に(つまりは、僕の生活と考えていたことの割合、大きさを正確に出して)形にしたいと思ったんだ。そのために愛犬に関する短歌は絵画的なものを目指したし、他の短歌では動きを持たせた。

そして、愛犬への思いをかき消すようにこの一年感じたことをふんだんに入れた。個人的には納得のいくものができたと思う。

もちろん、僕がこのほんの1年前まで「愛犬からの愛を一方的に受け取るだけになっていたこと」なんてほとんど気づいていなかったことも含めてね。


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