夏の魔物

作家でごはんにて掲載した作品を保存します。写真はソウノマホさんのイラスト。

ハーピーとキャビア・ライムの間

元は彼女の家の物置であった白い小屋は二人だけのアトリエとなっていた。

 彼女は海が見える窓際、僕は彼女が見える壁際で毎日自分たちの好きな絵を描いた。


         *


 その日も彼女は窓際の椅子に座り鉛筆を握っていた。彼女の目線の先には窓縁に置かれた深緑のライムがあった。

 彼女は先日美容院に行ったらしく、腰まであった髪を鎖骨あたりまでばっさりと切っていた。

 ガラスの割れた窓の外には教会の建つ岬と海岸線が見える。彼女は波が立っている水面と分厚い雲を見て、晴れるのはもうすぐ後になりそうね、と言った。波と天井の裸電球のフィラメントが焼ける音だけが聞こえていた。

「マッケンジーは、元気かい?」この小屋で生活し始めて1ヶ月経ったが、まだ彼の姿を見ていなかった。

「彼は3年前に死んだわ。窓を開けっぱな

 しにしたまま寝たみたいで、鳥に食べら

 れたの」


         *


(リサ、こんなとこに入っちゃダメじゃな

 いか。埃っぽいし、そこに積んである椅

 子とかが倒れてきたら危ないよ)

(ヒデ、いいの。マッケンジーも、これし

 ちゃいけない、あれしちゃいけないっ 

 て、うるさいんだもん)

(彼は君のお父さんの弟子だから、しょう

 がないよ)

……

(あっ、見てよ。空が晴れてきたよ。なん

 て言うんだろうね、光が雲の間から出て

 海に落ちてて、綺麗だね)

(ええ、大きいカーテンみたい。ヒデの行

 く街からも見えるかな?)

(日高の内陸部だから、どうだろう。見え

 るといいな)

(見えるといいね)


         *


 彼女は白いシャツ、ライトグリーンのスカートに黒のヒールを履いていて、足を組み直すたびに明かりがヒールに反射した。僕はライムの光沢を邪魔しないよう、薄く丁寧に描いていく。

 しばらくして彼女が大きく伸びをして鉛筆を置いた。

「全然構図が決まらない」

 肩にかかった切り立ての髪がするりと滑り落ちる。僕は絵筆を置き、緩くなったコーヒーを飲み干して立ち上がる。

「新しいの、入れてこようか」「お願い」

 二つのマグを片手に床の紙を踏まないよう注意しながら歩く。その度に床が軋んで音を立てた。空が晴れる前には仕上げなければと思い、ドアを開け主屋に急いだ。

 あと少しで数日費やした絵が完成しそうだった。


         *


「アジアで私を恐れさせたものは、アジア

 が先行して示している、われわれの未来

 の姿であった。」

クロード・レヴィ=ストロース


         *


 戻ってきてコップを机に置くと彼女が窓の外を向いたまま聞いてきた。

「今日は大学なかったの?」

「休んだ」

「君は真面目にやらなきゃ、私みたいにな

 っちゃうよ」

 サマセット・モームの小説がお気に入りの彼女は大学を卒業したあと家業を手伝いながら絵を描く道を選んだのだった。

 手紙では死骸の処理が大変だとか、遠巻きに見るとかわいいから無闇に殺すのは可哀想だとか書いていたが、それらは彼女の画家になるという夢に対する障壁にはなり得なかった。

(彼女の職業は夏の間だけであり、それ以外の季節は比較的自由に過ごすことが出来た。それはその仕事の危険性を考慮すると、当然のことだった)

 彼女はコップに手を伸ばして、息で冷ましながらゆっくりと飲む。僕は、そんな彼女を見ながらパレットの上でライトグリーンを作り始める。


         *


 彼女と離れている間、彼女の手紙を受け取った夜は決まって、彼女の肩甲骨から翼が生えて飛んで行ってしまう夢を見た。その度に夢の中で僕は自分の肩甲骨を叩いて翼が生えてくるよう祈ったが、いつまでも生えてくる気配はなかった。


         *


 この街での生活が始まって1週間を過ぎた頃、台風が来た。

 彼女の植物棚には全て濃い色の観葉植物が所狭しと並んでいて、彼女が適当に水をあげるのでその下の床には大きなシミが出来ていた。アンスリウムとペペロニアの鉢の間に骨らしき物が挟まっていることに気づいて何かと聞くと、彼女は「ハーピーの肩甲骨」と呟いた。

「だから、あなたが帰ってきてくれて、と

 ても嬉しかった。ちょうど来週くらいか

 らムー大陸からハーピーが飛来してくる

 の。でもハーピーだけの予定だから、ま

 だ楽。3年前はセイレーンも一緒だった

 の」

「毒餌を浜辺にまかなきゃいけないから、

 嫌だなあ」

「それが私の仕事なんだもの。父さんが腰

 を悪くしてるから、一人でやることにな

 ってた。もし一人だったら、石段を何往

 復もしなきゃならないから大変だった。

 ねぇ、トランプしない?」

 大富豪とババ抜きをした後やることがなくなった僕らは山札から1枚ずつ「海と毒薬」の上にカードを重ねていった。

(停電になったものだから、恐ろしく暇な正午だった。幸い冷蔵庫の中は空だったし、冷たいシャワーでも構わないくらい蒸し暑かった)

「それじゃあ、僕の手の中のカードを当て

 てみてよ。ヒントはねぇ、3!」

 ぴくりと彼女は手を止めて、真っ直ぐ僕の目を見た。ため息をついた後、小さく吹き出した。

「ねぇ、本当はジョーカーなんでしょ?」


         ♠︎


主屋は風通りが悪く、湿度の高い日は窓ガラスが曇っていた。ここに来て2日目もそんな日だった。

 ベッドの横には画材が積んであって、さらにその横には毒に入れるためのザクロとドクダミが積んであった。

 ベッドに寝転んだ彼女は画集から目を離さずに僕にこう聞いた。

「なんで帰ってきてくれたの?」

 その理由は、一つしかなかった。

「ずっと、リサのことを考えていたんだ」


         *


 7年半ぶりの彼女の家だった。

 僕が立て付けの悪い主屋のドアを開けると彼女は読んでいた「生物と無生物の間」をソファに投げて立ち上がった。信じられないというような顔をしていた。

 それから、僕から旅行鞄をふんだくって海岸に行こうと言った。彼女の手首にはナイフでつけたであろう深い傷があった。

「久しぶり。僕らは8年間会ってなかった

 んだね」

「手紙では時々やり取りしてたじゃない。

 あなたから貰った5枚の封筒、まだ取っ

 てあるのよ」

 彼女は石段の前まで来てくるっと振り返った。

「すっかりたくましくなったのね。あの小

 屋は、今アトリエとして使ってるの」


         *


 台風の後、海が落ち着いてから僕らは海岸に出た。潮の匂いがいつもより強くなっていた。彼女はジーンズにサンダルで長い髪を後ろで縛っていた。渚に着くまで彼女は一言も話さなかった。

 

「タバコ吸う人のこと、どう思う?」

「意志の弱い人間かな。周りに毒を撒き散

 らすから迷惑だしね。ヤニに頭を乗っ取

 られてるのさ。僕の叔父が去年肺ガンで

 死んだからかな。余計にそう思うよ」

 彼女は、長いスカートのポケットからポールモールとライターを取り出して海に投げた。

    ・・・・・・・

「君は、私に毒されてた?」


「ごめん」

「いいの。ダメ人間になったのは、私のせ

 いよ」


         *


 大体仕上がってきて、残りは髪とライムを描くだけになった。

 午後3時をまわってようやく晴れてきたようで窓から差し込む光が強くなる。相変わらず彼女は下書きを書いては消していた。僕は電気を消して、窓際に行く。

「何で僕らは絵を描き始めたんだろうね?」

「何でだろうね、」そう言ったあと少し間があって、僕は反射的に彼女の方を見る。

「きっと私はね、好きな人の1番好きな瞬

 間を描きたいだけなんだよ。」

 僕が「同じだ」と言うと彼女は地平線を見て目を細めた。そこからは、雲の間から海にそそぐ光芒が見えた。

 ふわりと風が吹いてきて、床の上の紙が舞う。

 いよいよ、ライムの色が映え始めた。


         *


 それから壁際の椅子に戻って丁寧に絵を仕上げた。15分足らずで完成させたそれを画材と一緒に鞄に入れて窓際を見た。

彼女は、ライムを手にして窓から上半身を乗り出している。

 黒髪が海辺の風に合わせて揺れる。

 そして、くるっと振り返って口を開いた。

「そう言えばなんで君はこの1週間、私に

 窓際でライムを描いて、なんて言った

 の?」

 僕は「内緒」と言って苦笑する。

 彼女のことだから、僕が彼女を描いていたなんて知ったら恥ずかしがって窓際で描いてくれなくなるに違いなかった。


         *


 次の日の朝、僕らは毒餌を入れた袋を抱えて霧がかかった浜辺に向かった。ハーピーはまだ来ていないようで、サンダルが石段と擦れる音しか聞こえない静かな朝だった。

 砂浜に足を踏み入れると砂が足の指の隙間に入っていく。

 毒餌のきつい臭いは、潮の匂いや画材の香りとは違うひどいものだったが、それがとても懐かしかった。

 渚には白い貝殻がおびただしい数漂着していた。それはハーピーが来る兆候だった。彼女が終わった後に飲むメキシコ・ビールとライムを貝殻のない方に放った。

 僕らは荷物を下ろして腰掛ける。砂の水分がズボンに染みてくる。彼女は、波を見つめたまま聞いてきた。

「ねぇ、ここでずっと、暮らすのはど

 う?」

 僕は、答えるより先に反射的に彼女を抱き締める。

「僕の方こそ、ここに居させてほしい。こ

 こにいると、未来のことも、絵画のこと

 も、ムーのことも、もう怖くないん

 だ。」

 彼女は、ゆっくりと僕の肩甲骨を撫で返した。


         *